のらと道行く、もばいら便り

ある日、旅に出ようと思った。
歩かなきゃ、と思った。

捨て鉢ではなかったし、さほど気負っていたわけでもない。
自分探しをするつもりもなかった。

勤めていた会社の同僚が10年間の異動遍歴をたどって、
たくさんのメッセージと、便りを絶やすなと
携帯電話と携帯パソコンの購入資金を集め、
カンパしてくれた。

こうして僕の旅に、カメラ付VAIO、命名「のら」という連れができた。
旅に出たのが1999年7月。もう7年半前になる。

もばいら便りを公にすべきだと
幾人の方から勧められながら、できないでいた。
7年を経て現すことにどれだけ意味があるのかはわからない。
ただ、自分にとっては現在形でもある。
ほとんど手を加えないまま、過去に遡って少しずつ記したい。

留まりながら、今も旅は続いている。

<ときをつなぐ記事>
 http://genki.sanin-navi.jp/?ID=5042

*よかったら、日付の古いものからご覧ください。
 なお、投稿日は意図的に操作しているので出鱈目。
 タイトルの日付は元になっているメールの発信日です*

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# by norato | 2007-01-01 00:00

のらと道行く、もばいら便り~長い旅・ラッシュ2001/06/04

仮設住宅では、ちょうど第二次入居が始まった。一人暮らしの老人から、引越しの手
伝いを依頼される。遠く、あるいは近くに別居している家族が来ていることもある
が、引越しとなると人手や運搬手段が必要だ。家に入り、少しずつ被災地の内情に近
づく。
田舎で、老人からの依頼だ。引越し日は仏滅などを避けてなるべく早く、と暦も影響
してくる。自ずと活動する日も集中してくる。派遣する側にも人手の都合があるから
・・・、と「こちら側の論理」を押し付けてもいいことはない。無償でやってもらう
にしても、人には譲れることと譲れないことがある。物理的には助かっても、わだか
まりが残るようではいけない。ボランティアが「やってあげた」自己満足に終わらな
いためには、相手が何を望んでいるか(大事にしているか)、何はしてほしくないか
を知ることが大切だ。・・・とこんな考えも、次第にまとまっていった。日野町にな
じみ、日野の人になじんでいったからだろう。考えてみれば、ふだんの人付き合いに
も通じることだ。サービス精神とか。ボランティアだから当てはまらない、ってこと
はない。せっかくやってあげるのに。無料でやってあげるのに。・・・相手に通じる
ことのない一方通行は、善意などと呼ばない。
仮設住宅は、台所脇に玄関があり、窓がある奥の部屋に向かって2間続きのつくり
だった。大きな家に住み慣れたじいさんばあさんに、プレハブのすみかは最初どう
映っただろう。

日野町に入って10日目、強風が吹き荒れる。それまでぽつりぽつりだったボラン
ティア依頼の電話が、毎日数件、コンスタントに入るようになる。ほとんどが、屋根
に張っていたシートが強風であおられてはがれている、張り直してほしい、といった
内容だ。ここから、やってもやっても依頼を片付けられない、長い長い日々が始ま
る。それでも困っている人みんなが依頼してくるわけではない。氷山の一角だ。

この時期、土日はまだいくらか頭数がそろったものの、平日のボランティアはせいぜ
い4,5人。ひと組で動くのがやっとで、大きな屋根になると一日かかっても終わら
ない。必要最低限の機材を使って、集まるだけの人数で進める作業。冬を越せるだけ
の装備にしないといけないから、気は急いても多くの件数はこなせない。しかも日本
海側の冬型の天候は、時雨れて晴れ間が少ない。着手できていない依頼が、日に日に
ボランティアセンターのホワイトボードを埋めていく。

震災直後、短期間のうちに大量に張られたシートは、一時凌ぎのもの。まずスピード
優先の段階だったから、それほど頑丈に固定されていないし、壊れた瓦をそのままく
るむようにしてあるものも多い。
震災から日が経っている。地域一帯で被害があったから、地元の業者はどこも手一杯
だ。屋根の修理は、春を待たないといけない。おまけに日野町は、山間で雪が多い。
震災直後のとりあえずの雨よけから、冬越え対策へ―――同じような作業でも、求め
られるレベルがは変わっていた。
自分にとっては、高所での慣れない作業。なかなか減らない件数だったが、実際にあ
とで作業手順をまとめたら、工程が少なくて愕然とした。それだけ手間がかかる活動
だったのだ。それでも、手順が整理できるにつれて活動は効率的になっていく。ボラ
ンティアもチームの動きがとれてきた。

11月も後半に入る。日野町災害ボランティアセンターから眺める大山の頂に初冠雪
がある。地元の人は雪の匂いがしてきたと言う。里に下りてくるのも間近だ、って。
自分にはわからない感覚で、妙に感心する。

日野町は「日本昔話に出てくる山村」のようだという人が多かった。雲海が名物だ。
水が多くてきれいで、側溝の水をすぐ脇にしつらえた池に引いて鯉を飼っている。水
音が気持ちがいい。旧出雲街道沿いの町並みには、築100年以上の家がざらにあ
る。地震以降、町中では家が取り壊されて歯抜けになっているところも多い。

あとから考えると、日野町で屋根のシート張りに日々を過ごしたのは、地震があった
日から仕組まれていたことではないか、という気にさえなる。震災の夜を過ごした宍
道駅。そこで出会った16歳の少年は、瓦職人だった。彼は、離れて暮らす一つ下の
奥さんと娘の桜ちゃんに会いに行く途中、地震で足止めを食らっていた。両親(当
時、34歳と35歳!)の境遇、大阪での住み込み生活とそこからの逃亡、甲斐甲斐
しい奥さんの話、娘の話、瓦職人としての今の仕事、そして将来の希望。ワルぶった
り、自己顕示をしたりというふうでもなく、素直に自分のことを語った。大きな地震
があった夜の無人駅舎。日常の裂け目にできた出遭いに気持ちが高ぶっていたことも
あるだろう。
これまで、「屋根仕事」というものを意識したことさえなかった。彼の初仕事、中海
に浮かぶ大根島の神社の屋根には、地震の影響はなかっただろうか。行って見てくだ
さい。―――足を運ぶよ、と言ったまま、まだ見ていない。
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# by norato | 2002-02-17 00:00

のらと道行く、もばいら便り~長い旅・冬へ2001/05/25

e0115870_0224083.jpg

ずいぶんとご無沙汰しました。今は鹿児島からです。
最後にもばいら便りを送ったのは、地震後の鳥取・日野町に初めて行った日だから、
11月11日のことだ。もう、半年ですねー。だいぶとさかのぼりますが、長い
旅を何回かに渡って送ります。

ほんの成り行きで、初めて鳥取・日野町に行ってから6ヵ月になる。
たまたま立ち寄った米子で「鳥取西部地震」に遭遇し、1か月経って隠岐にいるとき
に、日野町でボランティアの人手が不足しているというニュースを見た。日野町がど
こにあるのかわからないが、米子の近くであることは想像がつく。「奉仕活動」は、
どうも「滅私」や見下す気持ちが見え見えの人たちが思い浮かび、気持ち悪い。だ
が、とにかく災害復興に人の手が足りていないらしい。

自分もその地震に遭ったから他人事とは思えない。体の自由は利く。ちょうど近くに
いる。長く続く(このときにすでに、そう思っていた)後遺症の真っ只中に入る機会
など、そうあるものではない。これだけ条件がそろって行かない理由はない。旅の途
中、通りがかりの人が気にかけてくれた。旅の情けは、ただかけられるだけのもので
はない。そんなことも考えていた。手に職があるわけでなし、まさしく人手にしかな
らないが、電話で2週間ほど・・と申し出ると喜ばれたようだ。
それだけのことだった。それが、ひと月半の間をおいて、のべ3ヵ月半を日野町で過
ごすことになる。

11月11日、米子から日野町に向かう。岡山まで抜ける伯備線は、日野町の中心に
ある根雨から3駅先の生山までが不通だった。地震から、まだJRが復興していない
のかと思った。実際には、10月28日の大雨による地すべりが原因だった。
鹿児島の水害で、土砂に埋まった車両の映像が頭をよぎる。このときバスに乗ってい
て、海辺の崖にせり出すまで土砂に追いやられた従妹は、しばらくサイレンの音にも
怯えた。

静かな夜に、ゴゴゴーーーッと地が鳴り響き、追って揺れがくる。山間にある日野町
の地震は、山鳴りとともにやってくる。ストーブにのったやかんの音が聞こえるだけ
の広い部屋。「社会体育館・集会室」、元中学校の音楽室だったところが寝床だ。そ
れでも、旅の途中と同じくテント生活を覚悟して来たから、不自由ながらも恵まれて
いる。流しも、トイレも、電灯も、毛布も、ストーブもある。初めの1か月、昼の弁
当まで3食を自炊して過ごした。外食をしたのも、町外に出たのも、ほぼ1ヶ月経っ
てからだった。
周期はあるが、“余震”はずっと続いた。

10月6日に地震が起きて1ヶ月が経っていた。町の中心部は落ち着いてきているよ
うに見えた。日野町に行ったときは、ちょうど活動の谷間だった。ボランティアの数
も少なかったが、住民からの依頼も減っていた。それでも、地震で石の囲いが崩れて
水が抜けた池を埋めたり、土のうをつくったり、仮設住宅への引越しをしたり。日々
やることは待っていた。

そして4日目。初めての屋根仕事だった。地震で棟瓦や斜面の瓦が落ち、青いビニー
ルのシートがかけられた家が多くあった。ほとんどは、震災直後にボランティアや自
衛隊の手によって、当面雨もりを避けるために張られたものだった。1ヶ月もすると
不具合も出てきて、手直しが必要になっている。
屋根は、子どものころ塀づたいに上った鹿児島の低いものとは、かけ離れていた。雪
が多い地方だから傾斜は急で、おまけに平屋でも田舎の立派なつくりの家は高さが
違った。足はすくむ。それでも、自分も上らないと、とても終わるような規模ではな
い。家主の一人暮らしのおばあさんの途方に暮れた顔が浮かぶ。誰かがやらないと、
顔の曇りはただ増すばかりだ。慣れない地下足袋で、へっぴり腰ながらも屋根に上
る。・・・翌日まで作業が持ち越されたその家に泊めてもらった夜、目が冴えてなか
なか寝付けなかった。緊張が続いて神経が高ぶっていた。自分だけかと思ったら、一
緒に作業をした24歳も一緒だったとあとで聞いて、ちょっと安心した。

歩き旅では、どうしても通りすがりになってしまう。ここでは地域密着で過ごそう、
来た日にそう思った。その始まりとなり、ずっと大きな位置を占めたのがここのおば
あさんだった。明日もうちで仕事なら泊まっていきなさい。気遣いだと思った。それ
でも老人の気遣いには応えるものだ。いそいそと世話を焼くのが元気の素にもなる。
だが、気遣いだけではなかった。いつも一人だから、こんなににぎやかなのは久しぶ
りだよ。子どもも女の子だけだから、息子ができたみたい。小遣いをあげんように
なったら孫も寄り付かん。苦労しておじいさんが残してくれた屋敷だから、さびしく
ても守っていかんと。・・・夜遅くまで、ずっと語った。本格的な冬も間近、屋根を
本格的に修理して、ブルーシートが外れるのには少なくとも春を待たねばならない。
屋根にかけられたシートの張り直しは、安心して冬を迎えるために急を要する作業
だった。でも大切なことは、雪が積もっても大丈夫な状態にする、ただそれだけでは
なかった。
ここは高齢化が進んだ、過疎の町だった。


・・・まだまだ続く、長い旅・・・
日野町でのボランティア風景が、NHKの「ボランティアにっぽん」という番組で放送
されます。一緒に活動していた68歳の方が主役なのですが、私もへっぴり腰で屋根に
上り、屋根上でインタビューを受けています。よかったら見てください。
 26日(土)20:45~55 NHK教育(再放送)←明日
 28日(月)5:10~20 NHK教育(再々放送)
 6/2日(土)5:05~15 NHK総合(再々放送)

すでに12日に本放送はあったのですが、思いもよらない反響が。。
幼稚園入園式翌日来の幼なじみ、しかし高校を出たころから少しずつ疎遠になって、
10年は顔も合わせていない親友から16日に電話があり、しこたま飲んできまし
た。ふだんNHKなんて見ることもないけど、たまたまチャンネルをかえていたら
映ってた!建設業の彼は屋根仕事に目が止まり、あれ?見た顔が・・・というわけで
電話をくれたらしい。ありがたいことです。
彼とよく遊んだ川沿いを、13日、16日と続けて、久しぶりに歩いた日の電話。1
0分間のNHK教育に目が止まったことといい、・・・シンクロニシティか。
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in 鹿児島
Ph:屋根(C)K.Tanaka@ChugokuNP.jpg
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# by norato | 2002-02-16 00:00

のらと道行く、もばいら便り~縁をたどって2000/11/11

隠岐は島後を一周ほぼ歩いて、本土に渡ってきた。島前の3つの島は、今回は見送っ
た。地震の被害が大きかった鳥取の日野町で、復興が思うように進んでいないという
地元のニュースを見たからだ。地震から日が経ってボランティアが減り、人手が足り
ないらしい。
自分もその地震に遭ったからいくらか身近に感じる。体の自由は利く。ちょうど近く
にいる。長く続く後遺症の真っ只中に入る機会など、そうあるものではない。これだ
け条件がそろって行かない手はない。手に職があるわけでなし、まさしく人手にしか
ならないが、電話で2週間ほど・・と申し出ると喜ばれたようだ。そんなわけで、
きょうからしばらく日野町に滞在だ。
今日の山陰は雨模様。先月28日、大雨のあとの地すべりで不通になったJR伯備線・
根雨駅-生山駅間は、今もバスで代行運転をしている。こんな調子で2次災害もある
から、なおさら復興が進まないのだろう。


隠岐は、「古きよき日本」という感じの田舎だ。そう高くない山が延々と続く地形の
隠岐・島後は、山をあまり無理に切り崩していない。人は、住めるところに住んでい
る、という感じだ。だから、便は悪い。
3日、牛突き(闘牛)の秋場所を見に行った。牛突き場は、小さな神社前の広場に
あった。相撲の土俵を逆さにした形に地面を掘り込み、そこを鉄策で囲んで周りにベ
ンチをしつらえた、シンプルなつくりだ。それでも、牛が怪我をしないよう土俵の周
囲にクッションを埋め込むなど、考えられている。

牛突きは12時の餅まきから始まると聞いて急いだ。が、長々と神事が続き、餅まき
があって、牛突きが始まったのは1時をだいぶまわってからだ。段取りも進めながら
決めるといった具合で、いかにも田舎の催しだ。そんなものだと思えば、ほっとする。
牛突きは初めて見たが、おもしろかった。野蛮で。野蛮なのは、牛じゃなくて人
間。牛のほうは力強くて静かな迫力があったが、想像していたほど激しくはなかっ
た。人間のほうは・・・。観客は牛が突き合うさまに笑ったり、おおーっと感嘆した
り。土俵では、牛に勢いがないと、綱を引く人とは別の人が牛の後ろに回って、葉っ
ぱのついた枝や手で尻をたたいたり、声をかけたり。牛をけしかける。昔は川沿いの
あちこちに牛突き場があって、娯楽のない孤島で農作業の合間の楽しみにしていたと
いう、そんな空気が残っているようだ。野蛮で、ほっとする。
でも、牛突きの対戦は、10番のうち最後の1番以外は、全部「引き分け」。適当な
ところで「引き分けにしてくださーい」と放送があって、それぞれを引いて分けてい
た。力の差が歴然としていた1番では、客席でもこりゃ分けんといかんと声が出始め
た開始早々、さっさと引き分けになった。牛に勢いがついているときには、綱を数人
で握ったまましばらく突かせて、タイミングを見て綱を双方に引くと、すっと牛の頭
が互い違いに向いておもしろかった。まさに息を合わせる、ってやつだ。
牛突きを堪能して、すぐそばで振る舞われていた小あじの炭火焼、すき焼き、日本酒
も堪能して、ほろ酔いで歩いて帰った。コップ1杯でも、飲んで7キロは、つらい。

隠岐は、人の柄もいい。これだけの田舎だから、見ない顔だがこの兄ちゃんは誰
だ、って目で見られることもしばしばあるが、声をかけないでおれないって人も多い
みたい。初めてタクシーの運転手に拾われ、観光バスにも拾われそうになった(バス
は、断った)。タクシーに拾われたのは山の中で、営業所に帰るだけだからいいよっ
て。観光バスの運転手に声をかけられたのも山道で(結局、島のほとんどが山だ)、
ちょうど客が乗っていなかったからだ。
灯りのないキャンプ場から2晩続けて晩ご飯を食べに行った店のマスターは、今夜も
キャンプ場?今日は彼女のところに行って帰らないから寝て行くといいよと、ひとり
住まいの家に泊めてくれたのだった。調理人の家にしてはガステーブルはないし、棚
もガラガラ。仮住まいの風情だ。ただ、4段の本棚には、びっしり西村京太郎が詰
まっていた。
キャンプ場に連泊した中日は、島で最高峰、標高600メートル近くにある乳房杉
(ちちすぎ)まで歩いて往復。さすが樹齢800年、垂乳根が立派に垂れていた。
まだ見ぬ、屋久杉も見たくなった。

島後はほとんど島のいちばん外側の道を歩いて1周。最後に、妹の旦那の伯父さんの
家を訪ねた。妹の義理の父親は、隠岐の出身だ。一応あいさつだけのつもりで連絡せ
ずに寄ったが、歓待されて1泊、ゆっくりして行っての言葉はありがたかったが、先
を急いで出発した。小さな漁村のばあちゃんたちが、出発するバスに手を振ってくれ
ていた。


伯備線が米子を離れて山に入ると、徐々に青いビニールシートがかかった家が増えて
きた。山の斜面は崩れて土の肌が剥き出しになり、墓石は倒れ、線路脇でも土が崩れ
ているところを見かける。日野町は、大山の奥、岡山・島根との県境にある。
「人の役に立とう」とかさほどの気負いはないが、現地に着いて話をきき、今の状況が
耳に入ってくると、やはり迫ってくるものがある。最新の困ってることの一つは、仮
設住宅で使える小さな冷蔵庫や、洗濯機、テレビなどの手配ができないか、というこ
とだった。
いろんな情報を読むと、鳥取県知事は住宅再建に補助金を出すという異例の対応(ら
しい)を即決し、町は手厚い補助をしている。路頭に迷う町民を思いやってというこ
とだけでなく、ただでさえ高齢化・過疎化が進む町だけに、復興を進めないと町その
ものの存続が危うい、らしい。

今日から最低2週間は滞在して、体育館暮らし。今日の泊まりは3人。地元や米子か
ら日帰りで来る人もいるようだ。せっかくなので、地域密着で過ごしてみよう。

それにしても、パソコンがだんだん青息吐息になってきた。過酷な旅をともにしてき
たから、寿命が短いのか。主はたくましくなっている(と思う)というのに。冬を越
してくれるといいのだが。
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# by norato | 2002-02-15 00:00

のらと道行く、もばいら便り~あ、土岐くんだ!2000/11/02

隠岐に渡って、宿の部屋でワインと軽食で晩飯を食べながら、たまたまつけたテレビ
番組。宮古島を舞台にしたコーナーに、覚えのある顔が。確かに宮古島にいるはず
だ。でも。まさか・・・。そして、名前が出た。

土岐くんだった。与那国島のフリースクール「どなん地球遊人」、野村さんのところにい
た男の子だ。どなん地球遊人に行ったときそこにいて、話をした。三重県から来てい
た土岐くんは、与那国島でダイビングの体験を積んで、今春宮古水産高校、今は翔南
高校のマリンレジャー科に進んだ。すぐにピンとこなかったのは、校名が変わってい
たからだ。

番組は「ウンナンのホントコ!」。「未来日誌」のコーナー。雪が降らない与那国島の高
校生がアイスホッケーに挑戦するという内容だ。数回に渡って放映される今日の回
は、番組をきっかけに作られたばかりのアイスホッケー部の部員が、ひとりずつ大声
で自分を「カミングアウト」して、部がひとつになるというもの。「中1から中3ま
で、学校サボってたああーー」土岐くんは言った。そしてほかの部員のほうへ駆けて
行き、ほかの部員の誰よりもかっこよく、その先にある海に飛び込んだ。会った時よ
りも、ずっとたくましくなっていた。

うれしくて、コーナーが終わるとすぐに、与那国島に、野村さんに電話した。「涙が
出たよ」、俺もそれで電話した。元気でいる、たくましくなって。こんなうれしいこ
とはない。

話は変わるが、テレビといえば、垣根涼介の「午前三時のルースター」のドラマが
11月25日土曜日に、テレビ朝日系で放送される。余裕があったら見てください。
これを機に、本もまた売れるといいな。だが、山陰はテレビ朝日系の放送局はないようだ。
残念。

地震のあと、これから隠岐に渡る、といったまま気が変わって鹿児島へ。改めて出直
して、今日隠岐に渡ってきた。地震の被害がいちばん大きかった境港から出たフェリーは、
銅鑼を鳴らして出航した。なんだかめでたい。
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波に漁火、栗拾い。虫の声聴く、秋の山陰路。

追記(2007/06/09)
*学生の頃からフリースクール、フリースペースには興味があった。
 生きる道、あり方はそれぞれでいい、
 何もかも、がんじがらめにからめとっていこうとするかのような
 窮屈な世の中にあって、意味のある場だと考えていた。
 旅する中で、自分の思いによく合ったどなん地球遊人、野村さんと出会い、
 そして今、自分でもそういった場を持っている。

 たどるべくして自分の道を選びとっているかのような
 自分のイマがおもしろい。
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# by norato | 2002-02-14 00:00

のらと道行く、もばいら便り~鳥取県西部地震2000/10/10

たまたま電車で足を伸ばした、震源地近く、米子。
昼飯中に揺れ始めた。腰を上げ、テーブルを押さえたまま
(テーブルにつかまったまま)、立ちすくむ。
棚が倒れ、ものが散乱。座ったばかりだった子どもは怯えている。
20秒近くだったという揺れがおさまって外に出ると、
駅舎にある事務所の窓は何箇所か割れ、
足元の通路は盛り上がったり、段差ができたりしていた。
駅前広場に座っていると、強い余震が。
建物が、地面が、たわみ、揺らぐ。
とっさの一発目は、冷静な判断ができないほどの衝撃があったけど、
余震の強さでそれに増して激しかった本震の強さを思い知る。
昼飯を食べていたビルの3階のマンションは天井が落ちたらしく、
住民の人はずっとうろうろしていた。余震が続いて建物に入る気もせず、
駅前広場で7時間弱。ようやく走り出した電車で、
歩き始めようと思っていた宍道湖ほとりの駅まで戻った。
交通機関のストップで、あわてて米子駅付近のホテルを押さえている
人もいたけど、そんな勇気はなく。宍道駅舎に泊まった。

宍道駅で、ダイヤのない列車運行の煽りを喰らった
ローカル電車好きの旅の人と、
そして離れて暮らす娘と奥さんに会いに行く16歳と出遭う。
16歳の彼は相当なやんちゃをしてきた「元族」で、高校を3ヶ月で辞めて
ラーメン屋で修行、今は屋根屋の正社員をしている。
同棲していた彼女に子どもができて、産むことは認めてもらったが、
2人目ができてはいけないと離されて暮らしているという。
年下の奥さんは、昼間は実家で子どもを見てもらい、学校に通う。
同棲中も、早起きして弁当を詰め、それから学校に行っていた彼女。
「今は桜(娘)も彼女もいるし、無茶はしません。仕事も信頼してもらっていく
のがおもしろい」って。
実家に住む彼は、「こないだ親から3日続けて説教されて、
この年で情けないですよ。仕事も休めっていわれて」と、少年らしさも覗かせる。
母35歳、父34歳・・・俺と同い年は、すでに「じいさん」だ。
早婚の一族で、桜ちゃんにとって、ひいひいじいさん・ひいひいばあさんもいる。
あてにならない電車に業を煮やした彼は気が急いて、失敗したら
戻ってきます、とヒッチハイクをしに行き、結局、手ぶらもなんなんで、と
ハンバーガーの土産を手にして戻る。
どうせ向こうまでいけないなら、先の駅で一人過ごすよりここにいたほうがいい、
明日朝、電車に乗りますといっていた彼は、大きく手を上げて、
その日1時ころの電車に飛び乗り、娘の元へ向かった。

余震は続く。
予定の方向、山陰の北上は続けたいが、まだ震源地まで行く気にはなれない。
松江まで歩いて、旅の途中で知り合った23歳、路上唄いのフリーターくんの
ところに世話になることにした。
左手に続く宍道湖には魚がたくさん跳ねていてきれいだ。
ためしに岸の砂を掘ったら、名産のシジミがたくさん出てきた。
睡眠不足と体に残る揺れの感覚で、くらくらする。ときどき余震もある。

松江のすぐ手前、車に拾われ、待ち時間に風呂でも入んなさいと、
スポーツクラブのチケットをもらう。
スポーツクラブのある、最近できたらしい駅前の建物では、
展望エレベータに女子中学生がきゃあきゃあ喜んでいたし、
(島根の地方の子かと思ったら、一中=松江市内の子たちだった)
各階にあるテーブルでは、高校生がテスト勉強(?)をしている。
テーブルと椅子の高さが同じくらいのところでは、床に座って。
ほとんどのテーブルは高校生が占拠しているけど、警備員も何も言わない。
おおらかでいい。

この3日ほど、松江城の堀を遊覧船に乗ってゆったり堪能したり、
島根大の学園祭に行ったり、寺の境内であった芝居を見に行ったり。
夜の古寺に、ビニールシートを敷いた客席の前をカエルが
横切ったり、2度ほど余震で揺れたり、そんな味付けありの
小泉八雲に材をとった芝居はいい按配だった。

余震も、ようやくおさまってきた。
大規模な地震が起きる可能性のある期間も、一応過ぎた。
隠岐へ---、久しぶりに島へ向かう。

・・・って書いてる間にも、また余震が・・・
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波に漁火、栗拾い。虫の声聴く、秋の山陰路。

加筆(2007/06/09)
*2000年10月6日、米子駅前にいなければ、
 いま日野町で暮らしていることはなかっただろう。
 のちにNHKで番組を作ってくれた際、ディレクターが
 駅前で携帯を手にした姿を写した映像を見つけたと
 番組に組み込んだが、まるでやらせのようだった。
*「屋根屋」を職業にしている人に、そうと知っていて出遭ったのは
 地震当夜が初めて。
 その1ヵ月後からひと月の間ほとんど毎日、
 その後も続けて屋根に上ってブルーシートをかけることになろうとは、
 このときは知る由もない。
*地震の翌日、松江の路上唄うたい、西村君宅に行く前に風呂に入った
 松江駅前ビル、松江テルサ。
 6年余りを経た今年2月、その建物で、よもや自分が
 災害時のボランティアコーディネーター研修の講師を
 務めることになろうとは、ましてやこのとき、知る由もない。 
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# by norato | 2002-02-13 00:00

のらと道行く、もばいら便り~秋は日増しに深くなる。2000/10/10

神在月にはちと早く、出雲大社にたどり着く。
十八社にはまだ各地の神の姿はなくて、
ふだんのあっけらかんとした大社のさまだった。
境内では、ちょうど遺跡の発掘作業中。
古代の書付にある、高さ48メートルの高層神殿が
まんざら架空の言い伝えでもない証になりそう、だという。
今もがらんとした出雲大社で、高く天空を仰ぐ。
ここはいわゆる縁結びだけじゃなくって、
大国主神が一切の縁を取り持つところらしいから、
今回の旅で寄るところとしては、ぴったりかな。

9月に入り、鹿児島から小倉へ電車に乗り、フェリーで下関に渡る。
去年たどり着けなかった山陰を北へ向かう。
関節への負担を減らすため、背負い荷の多くはカートに切り替えた。
荷物の安定が悪くてよくこけるし、荷物と体との一体感がないのは
困るが、全身の疲労はいくらか減った。

久しぶりの歩き、荷物を引く慣れないスタイルに、初めは
気が乗り切れない日が続く。
歩き始めはひどく暑かったが、台風14号が過ぎてセミの声が消えた。
台風が秋を運んでくる。路上には弱ったトンボや蝶がたたずみ、
たんぼには刈り取られた稲が掛けられている。

青海島は、最近よく話題に上る金子みすゞのふるさとだ。
長門市の民宿青海島はぼろい(は、言い過ぎか)旅館なんだけど、
木の廊下に「観鯉橋」ってのがあって、まんなかは木肌、
両脇は青で塗って、そこに何匹かずつ鯉がいた。
風呂は「海底風呂」と銘打って、湯船に浸かった目線のあたりに
青い水の層があって、そのうえに松林や釣り糸たれてる人や・・
が、造形してある。ここまでやると、感動する。
絵の鯉だけじゃなくって、玄関には本物の鯉もいる。
やたらぶっといのが、小さな浅い池みたいなとこに。
で、つい、指をそっと浸して背中をすっと撫でたら、鯉がばしゃっと
びっくりして水をはねた。2度目は慣れるかなと思ってもう1回やったら、
今度はもっとばしゃばしゃってはねた。びっくりした~。
鯉には、いい迷惑だ。

去年から行きたかった、萩にたどり着く。一番安い民宿を
あたったら、島根の松江から11日くらいずっと歩いてきた
23歳と一緒になった。この間毎日25~30キロ歩いて
ゴールのこの日までずっとテントや駅舎泊だったという。
短期決戦とはいえ、いい根性だ。(翻して自分は、・・・)
西村くんは島根大卒の新卒フリーターで、路上の唄うたい。
学生時代は学生運動っぽいことをやってたという。
イデオロギーからではなくって、問題意識から入ったところに
好感が持てる。
晩飯のあと、近くの自販機で焼酎や酒を買って飲みながら、
歩き旅の話、音楽の話、などなどしていたら、
友部正人を聴いて、自分のギターが変わったって。
こんなところでも縁をつないでくれる友部さん。
西村くんから元気をもらい、俄然元気に歩き出す。

電車に乗って、津和野を訪ねる。入り口に掲げられた絵に惹かれて
入った「板橋アンティックドール美術館」で、ここのオーナー、
板橋龍子さんと出遭う。
70歳の女性だが、おばあさんという感じではない。
館内には、私費で集めた相当数の古い西洋人形、今は画家になった
娘さんの絵が置かれ、休憩テーブルには自作のエッセイを置いている。
いくらか話をしたが、思ったことをまっすぐに言い、かといって
思慮が足りないというのでなく、照れや自分を顧みることを知っていて。
人の、個人としての力をすごく感じる。

津和野では、もうひとつ得をした気分になるようなものがあった。
杜塾中尾彰美術館という、元庄屋屋敷を使った美術館で、
昔ながらの木の雨戸に空いた小さな穴が
ピンホールの役割をして、内側の障子などに外の光景を
上下左右反対に映し出してた。その日はうす曇だったけど、
障子に映った「絵」は幻燈写真のようで、きれいだった。
よく晴れた日には、それはきれいに映るらしい。

実りの秋、栗も落ちるようになってきた。
(今年の)(山口・島根あたりの)栗は甘くておいしい。
晴れた日に海岸にテントを張ると、
水平線に漁火、空に満点の星、波の音に虫の声、と揃い踏み。
ただ、ほんとに夜、朝は寒くなってきた。


山陰には、温泉がたくさんある。
雨を避けて古い湯治場に行き、効能が自分にぴったりの温泉を見つけた。
部屋は、「この壁から向こうは築200年」。消防法ぎりぎりだそうだ。
ここ有福温泉の演芸場で、石見神楽をみた。
3つの演目を1時間ちょっと、とくに最後の演目、「大蛇(おろち)」は
迫力があってすごかった。直径70センチ、長さは20メートルくらいの体で、
とぐろを巻いたり、4匹が絡み合ったり。
客席は、みんな正座したりひざを抱えたりで90人くらいがぎっしり。
客席よりもやや狭い舞台を所狭しと4匹の大蛇、これに食われる女、
じいちゃんばあちゃん、退治する須佐之男命が暴れまわり。
笛と太鼓、鉦の音、囃子には、やはり心をくすぐられる。

波打ち際を歩くと、きゅっきゅっと砂が鳴る、鳴き砂の
琴ヶ浜に行って、砂浜を歩いた。
近くの川には、亀がぷかぷか、流れを漂っていた。
歩いて山越えをして、世界遺産登録の動きがあるという
徳川時代の天領、石見銀山を見てきた。
ちょっとがんばりすぎたか少し体調を崩し、どうせなら、と
歴史のある玉造温泉に行った。だが、ここはただの観光地だ。
宿の応対は最低だ。驕りを持った観光地はなんともならない。
それでも、形といい、艶といい、名前といい、勾玉は好きだ。


沖縄の黒島で会った女の子は、まだアラスカにいる。
  アラスカの秋は黄色。町も道も山も黄色です。
  デナリ国立公園は赤。地面が赤ーくなります。(これがみたかった!)
  入り口からバスにゆられて奥まで、その間5時間近くも真っ赤な大地が
  ずーっと続いています。
  ツンドラの大地に足を踏み入れると、背の低い木や草ひとつひとつが
  紅葉して赤い絨毯をつくっているのを実感。
  デナリ初日は快晴!で雲一つない Mt.マッキンリーも見れました。
  けど、後日吹雪にもあいましたが・・・
だ、そうだ。メールの全面が、赤や黄色に染まっているみたい。

沖永良部島で会った悩める青年からは、ビジネスビザを取って、
オーストラリアのバースに渡った、2、3年はじっくり経験を積みたい、
とメールが来た。
しばらく間があいたから心配だったが、これで、第一歩だ。
-------------------------------------------------
波に漁火、栗拾い。虫の声聴く、秋の山陰路。

*いま(2007/05/10)読み返すと、まるで予見のような
 出雲大社が縁を取り持つという下り。
 過去に遡っての内容なので発信日は過ぎたけど、
 メール内容ももうすぐ日野にたどり着きます。
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# by norato | 2001-02-12 00:00

のらと道行く、もばいら便り~人も流れる2000/09/10

上五島からフェリーに乗って、佐世保に上陸する。
梅雨明けの近づく、6月後半だ。
米海軍や海上自衛隊が駐屯する佐世保の港は、
船も港のさまも物々しい。
自衛隊の護衛艦っていうのかな、初めは米軍艦かと思った。
街中では基地のアメリカ人、水兵服の若い自衛隊員と
たくさん行き交う。

佐世保から久留米の近く、福岡の伯父の家へ。
1週間ほど滞在して、対馬に向かうことにした。
滞在中に、これまで「忙しい」を口実に、
30歳を超えても毎年サボっていた人間ドックを初めて受ける。
健康には気をつけましょう。

博多から、壱岐を経由する対馬行きフェリーは、ほとんどの客が
壱岐で降りた。車で渡るのならともかく、5時間をかけて
フェリーに乗る人はあまりいない。ほとんどが旅客船に乗る。
夜の海を進むフェリーは、時折
いか釣り漁船の漁り火をかき分けるように進んでいく。
不思議な光景だ。
港から歩いて数分、対馬で一番大きな町・厳原(いづはら)は
開けた町だった。地図を眺める以外、何の下調べもしない上陸。
「対馬は、違う」「大陸のようだ」・・・そんなイメージだけを抱える。

対馬は明治以来、戦争のたびに島全体が要塞化されて、
(中国、朝鮮半島への最前線だからだろうなー)
今は上島、下島とわかれているけど、
これも海軍が艦船を通すために人工的に瀬戸をつくったためらしい。
もとはひとつの島だったという。

厳原は元々大陸との貿易がある城下町で、
明治からは軍事的な役割もあって人の出入りもあったろうから、
地形は厳しくてもそんな流れで開けてるんだろう。
町だけでなく、人も開けている感じがする。
山深いときいてきたが、今も、がしがし山を削っている。
春から秋にかけての、北の山中の雪のカーテンならぬ
岩のカーテンが伸びている。

天皇家ゆかりの人が祀られているという、
和多都美(わたづみ)神社、海神神社など、
古い神社が多く、神社詣での機会が増える。
(「海神」=わだつみ、でもある。それにしても、
寺~教会~神社と、巡る2000年)
海神神社近くの商店のじいさんが、当番で神社の管理人か
なにかをしたときには、太平洋戦争の際に、
「鬼畜米英・・・かしこみかしこみ」などと政府が
奉納したものを目にしたそうだ。
「神の国」発言でいろいろ言われているけど、ついこないだまで
実際そうだったんだから・・・、という。

対馬西岸、海をはさんで40キロ先には、朝鮮半島がある。
テントを張った近く、猫が見えた。
ツシマヤマネコ(天然記念物)かと思って走っていって見たら、
黒猫だった。ツシマヤマネコは、茶色っぽい毛柄だ。
ツシマノノラネコだったみたいだ。
夕暮れの雲は圧巻。映画に出てくる作り物みたいな、
というとたとえが悪いけど、とにかくきれいですごかった。
晩飯の準備をほうって、写真を撮る。
海の向こう、夕焼けをバックライトにぽっかりと浮かんだ、
あれは韓国の山だった。晩飯が終わると、もう真っ暗だった。

たんぼの中を進む道には、ちっさいのが一面にぴょんぴょん。
アスファルトがざわついている。
バッタ・イナゴの類かと思ったら、カエルだった。
間を持たせながら、ゆっくりと歩を進めたんだけど、
いくらかは踏んでしまったかもしれない。

対馬・比田勝港からは、韓国までの船が出ている。
対馬にかかる案内板には、ローマ字表記はなくても、
ハングル文字表記はあった。
港に行くと、ちょうど韓国行き旅客船の出航間際。
韓国からのおばさん中心観光団が帰国の途につくところだった。
韓国から一番近い日本、十分楽しんだだろうか。
そんなことを考えながらぶらぶらしていると、
ひとりのおばさんが手を振りながら、税関の向こうに消えていった。

対馬では、途中で会ったおばさんにはジュース買って
飲まんねーと120円をもらったり、宿の世話焼きの
おばさんには、洗濯までしてもらった。
対馬は、同じ長崎県の離島でも、五島列島とはまったく
違った歴史をたどってきて、土地も人も開けていた。

対馬から博多に渡り、
それから鹿児島に戻って、1ヶ月と少しをすごした。
妹とその娘、3歳が帰ってきたから、あやして過ごした。
従妹のパソコン購入~メール・インターネットが使えるまで支援をした。
(身についたサービスレベルは、落とせないものだ)

高橋克彦の短編集「緋い記憶」を読み返すと、「冥い記憶」に
青森の川倉地蔵尊のことが書いてあった。
去年知り合いに教わるまで、川倉のことはまったく知らなかった
と思っていたけど、この本で出会っていた。
村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」を読み返す。
炭鉱のあった島に行きたいと思ったのは、軍艦島の話を
きいてからだと記憶を塗り替えていたが、ずっと前からのことだった。
最初に読んだのは、もう20年近く前だ。

博多から鹿児島に帰ってくるときにあった人との約束を果たす。
「(西郷)隆盛と(島津)斉彬によろしくいっちょっ(言っといて)くれ。
まだしばらく帰れんけど、元気にしちょっでち(しているからと)。」
博多駅前、路上生活の人の言葉だ。

去年の8月末、旅のはじめに恐山の宿坊で出遭った
チャリダー(チャリ・ライダー)から手紙が届いた。
子どものころからの夢、自転車旅行を果たし、
北海道、そして地元長崎でバイトをした。そして
大人になってからの夢、俳優を目指して上京、
登戸にいるって。
出遭った人もまた流れていく。

長い夏休みを終えて、山口県から山陰に向かっています。
晴れた昼間の日差しはまだ強いが、秋はもうすぐそこ。
旅便りをリアルタイムにもどそう、と思いつつ。
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# by norato | 2001-02-11 00:00

のらと道行く、もばいら便り~「かくれキリシタン」は、今もいる2000/09/10

はじめに感じた違和感は、船内放送だった。
ふつう船では「こうはん」と呼ぶ゛甲板"を
「かんぱん」と呼んでいたとか、言い回しが妙に
丁寧に聞こえたとか、そんな些細なこと。
でも、違和を感じる源は連鎖している。
途中寄港した島は、周囲が断崖。これで住む人がいるのか、
って思うほどで、五島列島はききしにまさる・・・期待も膨らむ。
違和感を抱えたまま、6月上旬、長崎から五島列島・福江島へ。

梅雨のさなか。ゲートボール場の屋根つき休憩所で
横殴りの雨をやり過ごす。動くこともままならない雨風。
パンフレットで民宿を探す。英文で書かれた小さな広告。
GOTO,my favorite island! 宿の名は「JAPON(さぼん)」。
電話をかけると日本語のうまくないおばさんが出た。
住所は、島でも中心地ではない、田舎の集落だ。
この島が気に入って住み着いたのだろうか。大柄で太っちょの、
白人のおばさんを想像する。雨脚が弱まる気配はない。
待つのをあきらめて、7キロほどの道を先に急ぐ。
ずぶぬれでたどり着くと、迎えてくれたのはベトナム人の奥さんだった。

日本から水産指導にきていただんなさんと結ばれ、
サイゴン陥落でだんなさんの故郷、福江島へ。25年になる。
何とか会話はできるが、通じたり通じなかったり。
過疎の田舎でのこと、話し相手が少なく、うまくならなかったという。
息子はベトナムで、娘は日本で生まれた。言葉に不自由はない。
だんなさんは、奥さんの料理をすごく誉める。気遣いもあるのか。
こういう人と一緒だから、異国の地でやってこれたのかもしれない。


そう、25年前だった。
小学校のクラスに、ベトナムからの帰国子女がやってきた。
日本人のだんなに、ベトナム人の奥さん。同じ状況だ。
違っていたのは、ベトナム語しか話せない子どもが
13歳から7歳まで、5人いたことだ。1学年繰下げての編入。
子どもは日本語にも慣れたが、お母さんはずっと片言だった。
長男は、戦車に乗ったことがあるといっていた。


宿では、この話もした。息子はベトナムに行ってみたいというが、
娘は行かないという。いやな思いをしたことでもあったのか。
自分は関係ないという意識もあるのかもしれない。
ベトナムで買ったんだといって朱色の柄のナップサックを見せると、
奥さんにヘンないろーといわれた。

舗装された山道を登りつめ、大瀬崎断崖に至る。
激しく切り立ったリヤス式海岸の多い五島でも、
ハイライトの絶景だ。灯台のある断崖を見下ろすと、足はすくむ。
高さは160メートルくらいあるらしい。


かつては遊郭があったくらい、港の水揚げが多くて栄えた町、
玉之浦近辺でのこと。
・夕どき小さな子どもを連れて、恰幅のいい母親がやって来た。
 野菜の入ったビニルを堤防に置いて、つり竿の糸を海に放つ。
 「ちょっとそこまで」晩飯のおかずの調達だろうか。
・この辺りには、移動スーパーがやってくる。以前は、
 美空ひばりは、新鮮な野菜を売る車、
 三波春夫は、新鮮な魚を売る車、・・・と、何台ものワゴン車が、
 トレードマークの音楽を流しながらやってきたそうだ。
 過疎が進み、今はそんな車も減った。
・入江の入り組んだ町内を、船に乗って渡った。
 小さな船に乗り込んで出港を待っていると、桟橋に
 男の子、女の子、そしてばあちゃんがやってきた。
 旅客船に乗るのかなと思ったら、反対側につないであった、
 エンジンを積んだだけの船に乗りこんだ。
 小さな3つの影を乗せた船はとっとっとっと滑り出した。
 この船で、入江を挟んだ町内を行き来しているのか、まさか
 夕方の「散歩」だろうか?かっこよかったなあ。
・開け放した窓から、猫が大型ワゴンの車内に飛び込んだ。
 すぐに「エリーゼ」徳用箱をくわえて出てくる。窓からあたりを見回して、
 目が合ったら、びくっとしていた。追っかけたら、慌てて逃げ出した。
 これぞ、泥棒猫だ。

玉之浦町・大宝集落の民宿、栄福荘で。
(玉・宝・栄・福って、いかにもめでたい。)
近くを歩くと、大宝寺って、古い寺があった。
裏山を少し登ると、奥の院にへその神様というのがある。
不須仙人という人の墓だと言われていて、
古くからここにへその緒を納めているが底が知れない、とある。
何百年もの間の、無数のへその緒が入ってることを想像して
ぞっとしたけど、そこが墓だって考えると・・・、
へその緒は食い物にでもされているのか。。(広がる妄想)

大宝まで乗った路線バスの運転手は、後日貸切バスで後ろから
追い抜きざまバスを停めて、「こないだ乗ってくれたひとオ~」と
手を振っていった。
やがて前からやってきて、今度はスピードを緩めなかったけど、
何人か乗ってたお客さんまでみんなが手を振ってすれ違っていった。
観光の途中で、歩き旅をしてる人で・・・などと言ってたのかも。


昼どき、白砂の海岸で。
どこからか3匹の犬が連れ立って現れて、潮溜まりに浸かっている。
浜で昼飯を作って食べたから、カラスも様子をうかがっている。
砂浜にほとんど白骨になった猫がいた。砂をかけて棒を立てる。
南無さん。十字。・・・
夜。ラジオから元気に流れてくるのは、
ハングル文字と中国語ばかりなり。日本語もきける。
海岸にもハングル文字があふれる。
その夜、テントが猫に襲われる夢を見た。
ラジオをつけたり灯りをつけたり、じたばたして抵抗していた。


からすが、とんびにラーメンをさらわれてやんの!
なんていってる場合じゃない。
ああ、俺のサッポロ一番みそラーメンが・・・
トイレに行く間くらいだいじょうぶだろうと
油断したのがまずかった。からすがくわえて持ち去り、
足音鳴らして向かったら、からすはそれをポトンと落とし、
それを今度はとんびが。ことわざは、正しい。
あっけにとられ、次に名残惜しそうにこぼれたラーメンくずを
食らうからすの姿を見たから、まあいいか。

岩場では、みな(びな=巻貝)をとってゆで、料理をしながら
つまんだ。小ぶりなサザエくらいの大きさのもいた。
小あじがあってうまいが、食い飽きた。ちょっと贅沢。


福江島の違和感の原因は、「隔絶」かもしれない。
島で遭う人に向けられる目が。警戒、緊張、いぶかしげ。
頭を下げても、ぷいと横を向かれることもあるし(子どもも、そうだ)、
たまに話をしても、人馴れしてないと言うのか。
長崎からは遠くはなれ、島の周りは切り立った断崖で隔て、
島内も山から山へという感じで集落から集落へが切り離され。
島の人と話すときの「間」の違和感は最後まであった。
こっちが話したことを相手がどう吸収しているのかつかみきれず、
リズムが合わなかった。

五島は、長崎の中でもキリシタンが弾圧の手を逃れてきた
ところらしい。かくれキリシタンの資料がある堂崎天主堂の
パンフレットには、「潜伏の時代からぬけ出ることができず、
今日に至っている信徒たちがいる」と書いてある。
たぶん、信仰形態のことを言っているんだろうけど、
今でも、かくれキリシタンはいる。
このこと自体が衝撃的だけど、もしや・・・と思っていたこと。
警戒心が強い、人馴れしていない、のは
弾圧された心性が受け継がれてるせいもあるのでは・・・。
ハズレとも、いいきれないんじゃないかな。

今も使われている木造の教会では日本で一番古い、
江袋教会に行って来た。築100年以上というが、
いい具合に修復がされて、趣のあるいい教会だった。
教会では、気が向いたら置いてある聖書を読んだ。
ここでも「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」などと読んでいると、
突然雨が激しく降り始め、雷まで鳴り始めた。

楳図かずおの「わたしは真悟」に出てくるマリア像は、
めがまんまるでちょっと斜めを向いて独特だけど、
五島の教会には、それとよく似た絵がいっぱいあった。
教会の外の岩場に据えられた「ルルドのマリア」にも惹かれた。
多くの教会には、懺悔室もあった。

キリスト生誕2000年でもある今年に
教会巡礼ってのもめでたいかな。
もっとも、年始には四国仏閣巡礼もしたけど・・

五島列島は、福江島、中通島とその周辺の小さな島、
嵯峨島、島山島、久賀島、頭ヶ島を巡った。
違和感と人馴れしないやりとりのじれったさはあったけど、
つんけんとした嫌味があるところじゃ、なかった。
-------------------------------------------------
馴染みのない九州、長崎県・五島列島を歩く。
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# by norato | 2001-02-10 00:00

のらと道行く、もばいら便り~旅の、聖地巡礼2000/08/07


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6月4日、長崎から高島へ船で渡る。3年半ぶりくらいか。
前に訪れた小さな旅がだんだん膨らんで、
やがて「歩かなきゃ」となり、歩き旅に至る。


そのとき高島へ行こうと思ったのは、炭坑で栄えた名残を見たかったからだ。
容易に渡れない軍艦島の代わりだった。
小雨が落ちる高島には人通りがなかった。
自転車を借りて、外周道路から高台に続く道を上る。
細い道に連なる古びた家々と海を見下ろす一角に出る。
いくらか青空も出てきていた。
屋根や草地、バス停の長椅子に、猫が何匹ものんびりしていた。屋根の上では
相手をかえながらつがったり。海と猫。ひとときゆっくりするのにいいところだ。

家が立ち並ぶ狭間の道を上って、おばさんが近づいて来る。
この間ここでU.F.O.を見たんですよ。ほら、あの辺。
誰かに教えてあげようと思ったけど、誰も通らないのよ。
猫がやたらとたくさんいますね。
そうなんですよ。このあたりの家は古くなって雨が漏ったりしていたから、
みんな役場が建てたアパートに越したんです。猫を飼ってた家は
みんな置いて。10匹も20匹も飼ってた家もあったんですけどねえ。
・・・雨漏りがしても、島には直してくれる大工さんがいないですよ。
まわりがみんな越してしまって、煮炊きするのがうちだけでしょ、
屋根やら窓やら、猫がガリガリやるんですよ。
それに、そこに小学校があるでしょ。子どもがこう手遊びしながら
歩いていると、猫がじいーっと狙うように見てるとですよ。
これは危ないと思ってえさをやるようになってしまって。
そこから、ほかの住民、町役場との亀裂が生じる。
村八分みたいなもんですよ。役場からもえさをやるなっていってきて。
小学校の子どもも猫を追いかけるとですよ。小さいのから狙え、って。
家でそんな話をしているんでしょうねえ。こわいですよ。
わたしも考えたんですよ。猫にえさをやるのがいいことなのかって。
仏教では畜生というし、キリスト教でも動物を大事にしていない。
宗教から考えてもいいことじゃないんじゃないかって。
でも、おなかをすかせて子どもに何かしたりしたら大変ですからね。
猫が好きなわけでもないんですけどね。
立ち話をするうち、お茶でも、とおばさんの別宅に招かれた。
古いアパートの3階の1室、ドアの前では猫がえさに寄り、荒れていた。
通信講座で学んだ人形、オルガン、童話、・・・次々と披露してくれる。
長く募った人恋しさからか、あれもこれもと。
この島でただ取り残されてはいけないと思いましてね。いろいろと
やっているんですよ。
古い家にはアルツハイマーの旦那が寝たきりだ。猫嫌いで、猫と一緒に
自分も、箒を持って追いかけられたことがあるという。アパートの部屋は
島の盛衰をなぞらえる古い家から離れて、自分を踏み止まらせようとする、
そんな空間に見える。
昔高島に住んでいた友だちから連絡があって、年をとったし、育った高島に
帰ろうか考えてるっていうんですよ。私は、やめなさいっていったんです。
今から帰ってきても、さびしいだけでなんにもならない、って。それは、
私もさびしいですけどねえ。

高島は、一周するだけなら歩いて一時間もかからない。今は人口千人
足らずだが、かつて炭坑で賑わったころ、10倍を越える人が住んでいた。
炭坑の時代が終わりを遂げ、漁業も観光もぱっとしないまま今に至る。
栄えていた分だけ、祭りのあとの隔たりは大きい。テレビや雑誌や
インターネットで同じ情報が流れる分だけ、心の隔たりは大きい。
人口が1割になったことは伝えられても、今そこに住む人の心までは、
知られない。


決して記憶の中に美化しようがない、歩き旅の聖地とでもいうのか、
高島を再び訪ねる。海水浴場は整備され、きれいな公園になっていた。
海岸に2泊テントを張り、猫を見におばさんを訪ねた。
状況は変わっていない。猫の数も。減って、増えたのだろう。
猫を始末する、と役場から通達があった。しかたがないと思った。
役場から捕らえに来ると思っていたら、袋に入れてくれ、といわれた。
それを回収する、と。自分で直接、猫に手を下すことはできなかった。
そうしたくない自分に正直なほうが偉いと思った。だからまだ、
毎日猫にえさをやっている。
けれど島には、40匹も50匹も、こんなにたくさんののら猫は
いないことになっている。ないはずの残滓たち。

家族連れで海岸にやってきた小学校低学年くらいの女の子は、
シャワーの途中で素っ裸のまま、石鹸まみれの頭を
わしゃわしゃしながらやってきて、こんにちは。
夕方からやってきた高校生男子集団は、パンツ一丁で泳いでいたが、
やがてパンツも脱いで砂浜でバック転などやっている。
おいおい、ほかに人がいないとはいえ、島でメインの海水浴場だぞ。
彼らは翌日も同じメンツでやってきた。
東屋の屋根に上ってうろついたり、
100メートル(くらい)走、砂浜走り幅跳びなど、競争事をやったり。
のどかだー。

テントを離れている間に、ごみ袋・食料の一部をからすに荒され、
役場の人間がやってきた。散乱したごみは片付けた後だったが
シーズン以外はテントを張ってはいけないようなことをいう。
「許可するとはいえないが・・」となんとも歯切れが悪い。
「猫おばさん」を待っている間にも、バイクの警官がやってきた。
誰か、待っとるとですか。これも通報があったに違いない。

小さな島では、キャンプ客のからす難の情報はすぐに流れ、
少し離れた食堂では、災難でしたねーときびなごの刺身を振舞われた。
帰りしな警官には、何にもない島ですけど、また遊びに来てください、
と言われた。
旅の始源地・高島は、2泊の間にも気持ちのいいこと、悪いこと、
聖俗取り混ぜてこまごまあった。
テントをたたんでいたら、海水浴場の工事に来てたおじさんたちが、
もう帰っと?さびしかねー、と送ってくれたから、まあよかったのか。

たぶんもう、高島には行かない。
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ひとときの鹿児島で。
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# by norato | 2001-02-09 00:00